はいどの詞とはいど自身はこの点共通したところがある、と以前言ったことがありました。
「なびく鮮やかな君が僕を奪う」
このあいだ叙情詩をリピートしてたらふとこのフレーズが耳について聞く度ひっかかるようになり、つくづく変な日本語であるなと思ったのです。これは日本語習いたての外国人が見たら意味がわからんだろう。
なびく鮮やかな君。
ムンクか。
なんてつっこみは野暮として、大体の場合なびくのは君の髪、奪われたのは僕の目もしくは心。
髪(か服)がなびく、心を奪う/目を奪うという表現は慣用的に使われていて簡単に連想できるから、叙情詩のこのフレーズを聴いて"ムンクの絵のように輪郭がぶれなびく「君」が誰かから「僕」を奪い連れ去っていく"なんてホラーを想像した人はまずいないでしょう。
「なびく」「僕/を奪う」という表現からは当たり前に連想される単語があり、それを省略してもほとんどの日本人は簡単に省略部分を補完してイメージを作れるのです。音楽が想像を助ける歌詞ならなおさらそれは簡単。
ならば慣用的すぎていっそ陳腐な目的語を省略して、代わりに想像の中により美しく情景が描かれるよう「鮮やかな」という視覚効果を加えようではないか。
なんてことをいちいち考えてるわけではないと思うけど、外国人にこの歌詞の意図を説明するならこんなところだろう。
要は受け手が情景を想像するために省略しても問題のない部分を省略してるってことだ。
歌詞(に限らずすべての表現)の目的は「伝えること」にあり、文法の破綻なんて手段のほつれは目的が達成されているときには問題にならない。
とは思うんだけど、自分なら「なびく鮮やかな君が僕を奪う」という文法無視フレーズを書けるかというと書けない。内容の話ではなく、省略しても問題ないからってあるべき単語を省略したりできないということですが。
わたしなら、日本語として正しく成立するように言葉を足すだろう。
それはわたしが持つ手段が文章だけで、そういう場合には文章が日本語として正しくないと伝わらないから。音楽や歌唱、言葉の選び方や構成でイメージを誘えるわけではないから。
手段のほつれをものともせず人を感動させることができるのは、表現者側の世界観の明確さも含めはいどやラルクの表現全体が卓越していることの証明で、やはりそれ自体とても大きな魅力なのだと思う。
言わずもがな、そもそもイメージを意図するほうに向けられるなら、限定しないことには想像を広がらせる効果もあるのだ。
「髪をなびかせた君の姿が僕の目を奪った」って、表現の中身としてはありふれていてつまらない。
それを髪とも言わず目とも言わないから、「君」の影、存在、印象あらゆるものが「なびく」という爽やかな語感に引っ張られて想像に美しく現れてくる。その鮮やかで清廉な美しさが「僕」を心といわずまるごと奪ったのだろう、なんてドラマチックなシーンだってできあがるのだ。君も僕も人間とは限らない、と考えればもっと壮大だし。
結局、より想像を広がらせる言葉を選んでいってるんだね。
って、はいどはきっとこんなことを理詰めで考えたりしてなくて直感と感性との相談による作品なんだろうなー。
はいどは論理すっとばしていきなり本質を見るうえに、感覚でそれを理解している人なのだわ。そしてその天才性で表現をかたちづくるのだわ。たまんないね。
しかし先日ディストBBSでキングってば「すぐ誤解されて、もう文章って難しい!プンスカ!」とぼやいていらっしゃいましたね。言いたいことの根幹だけかいつまんでフレーズで書くもんだから、さしものはいども文章だけでは意思疎通がままならない様子。
大体あなたの文章は色々省略しすぎなのだとつっこみたかったです。笑
(でも、あのいろいろ足りない文章がいいんです。ね。)
今ふと思ったんだけど、「なびく」って昔なら消えそうで儚いイメージに使われそうな言葉だなあ。
叙情詩では「鮮やかな」なんて鮮烈な言葉と一緒に使われてどっか行ったりせずにちゃんと実体がありそうな君ですね。大人。
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