彼女たちの勇気ある告白に寄せて
一面で思いやりのある好ましい人物が別の一面で人を傷つけたことを知ったとき、その思いやりのある人物が好きだった人はまさかと思うだろう。信じることに抵抗があるかもしれない。
けれどそれが事実であれば事実として飲み込むべきことであり、自らをそう納得させられたなら次にそれならば彼/彼女には心から反省し真摯に謝罪し、償いながら彼/彼女の一面がそうであったように生きてほしいと願い、自分もそのひとつの支えとなることを願うのではないだろうか。
しかし、ジョン・コフリンによる一連の性被害告発に関して、彼の友人たちはそう願うことさえできなかった。どころかそれが真実であると納得することすらできなかった。
その原因をつきつめればおそらく、社会的な圧力を含めて、被害者が秘して耐えることを強いられた環境に集約される。
性被害を告発するためには自分の身に何が起こったかを公にしなければならず、ただでさえ大きな心理的抵抗を伴う。まして今回の被害者は年若い女性たちであり、その苦しみは想像するに余りある。その上、彼女たちの所属する小さな社会では彼の信用は厚く、その中心に食い込んでいる人物だった。
告発が容易でなかった結果、彼女らは耐えに耐えた。しかしいずれその被害に、被害を身のうちに抱え込む重みに耐えかね、そして大きな勇気をもって告発を決意した。そしてその時にはすでに被害も被害者も拡大し、大々的に告発することの影響があまりに大きくなっていた。
公的機関への告発が周知のものとなったとき告発者を中傷する声が上がったが、おそらく告発者となった彼女にとっては想定のうちであっただろう。彼に比して立場の軽い自分の声はきっと受け入れられないという想像もまた被害者に対する抑圧のひとつであり、ここまで耐え忍んできた彼女はその抑圧を受けているはずだ。
彼と比肩すべき人物の助力を得ることが叶わないまま勇気を振り絞り、実際に中傷を受けた彼女の社会に対する失望は計り知れない。そして衆目のもとに晒された世界は確かに変革を求めていた。
自ら命を絶つという彼の選択により真実の究明さえままならなくなった今、アシュリー・ワグナーが自らの痛みを通じて改めてその変革の必要性を訴え出た。動け、見よ、認めよ、聞け、ということだろう。
彼女は、力が大きく違う大人と子供が隣り合う世界であることを知らしめ、その中で誰も何も秘匿し耐える必要のない、拒否の意思も被害の訴えも容易に受け入れられる社会の必要性を主張している。誰もが問題と真摯に向き合うことを求めている。
それが実現していれば彼女たちを救えていたのはもちろんのこと、(事実が彼女らの訴えの通りだとすれば)彼もまた早期に自らを省み、謝罪の機会を得ていたのではないだろうか。深い悲しみに沈む彼の家族や友人たちが冒頭に記したように彼を支えることができていたのではないだろうか。それが叶えられなかった、誰を救うこともない現状が今強く訴えられた。
影響力のあるアシュリーが言葉にしたことで、日本語媒体にさえセンセーショナルな文字が躍り、ずいぶんと精神が摩耗する。
その中で、ただ努めて彼女の意図を正しく汲むことに注力したいと思う。